煬帝
暴君かー。
煬帝(ようだい Yang-ti、569年 - 618年3月11日 在位604年 - 618年)は中国隋朝の第2代皇帝。諱は広、廟号は世宗、謚は明帝。煬帝とは唐王朝による追謚である。中国史を代表する暴君とされる。
略歴
文帝楊堅の次子として生まれる。文帝により隋が建国されると晋王となり北方の守りに就き、南朝の陳の討伐が行われた際には、討伐軍の総帥として活躍した。この時、初めて華やかな南朝の文化に触れ、当地の仏教界の高僧達と出会ったことが後の煬帝の政治に大きな影響を与えたようである。591年には、天台智顗より菩薩戒と「總持」の法名(居士号)を授かり、智顗に対しては「智者」の号を下賜されている。
生母独孤皇后は非常に貞操意識が強く、文帝に対して「自分以外には子を産ませない」と誓わせている。文帝は倹約を是としていたが、楊広の兄で皇太子の楊勇は派手好みで愛妾を求め、正妃を疎かにしたため皇帝に嫌われ、この状況を楊広が利用、両親の甘心を得るため自らの質素を宣伝すると共に、腹心の楊素らによる讒言を行い、楊勇を廃立し自ら皇太子の地位に就いた。
604年に文帝の崩御に伴い即位、崩御直前の文帝が楊広を廃嫡しようとし暗殺されたとの俗説が以後根強く残った(この説については隋書でも言及されている)。[2]。
即位した煬帝はそれまでの倹約生活から豹変し奢侈を好む生活を送った。また禁止されていた残酷な刑を復活させ、謀反を企てた楊玄感は九族に至るまで処刑されている。洛陽を東都に定めた他、文帝が着手していた国都大興城(長安)の建設を推進し、また百万人の民衆を動員し大運河を建設、華北と江南を連結させこれを使い江南からの物資の輸送を行うと共に、美女宝物を運搬させた。
対外的には煬帝は国外遠征を積極的に実施し、高昌に朝貢を求め、吐谷渾、林邑、流求(現在の台湾)などに出兵し版図を拡大した。更に612年には煬帝は高句麗遠征を実施する。高句麗遠征は三度実施されたが失敗に終わり、これにより隋の権威は失墜した。また国庫に負担を与える遠征は民衆の反発を買い、第二次遠征途中の楊玄感の反乱など各地で反乱が発生、隋国内は大いに乱れた。
各地で李密、李淵ら群雄が割拠する中、煬帝は難を避けて江南に逃れた。煬帝は現実から逃避して酒色にふける生活を送り、皇帝としての機能は失われていた。
618年、江都で煬帝は故郷への帰還を望む近衛兵を率いた宇文化及兄弟らによって、末子の趙王楊杲(13歳)と共に50歳にして殺害された。
歴史的評価
煬帝は歴史上の暴君と描写されその業績は否定的に評価される傾向にある。大運河に関しては女性までも動員した急工事でこれを開鑿し、開通のデモンストレーションとして自ら龍船に乗ってこれを行幸するということを行ったために、「自らの奢侈のために多数の人民を徴発した」などと後世の小説などに書かれることになる。
しかし大運河の建設は長期間分裂していた中国を統一するための大事業であった。
また、その環境や行動に類似点の多い唐太宗の正統性を主張するため、煬帝(ようだい)と言う貶字を謚号に用い、『隋書』にも暴君であるように編纂された可能性が指摘されている[3]。
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煬帝個人に関する研究は多いとは言えないが、その中で宮崎市定・布目潮渢・アーサー・F・ライトなどが挙げられ、いずれも煬帝の暴君像が後世の小説などにより(その程度がどれほどであったかは別として)誇張されたとする点では共通している。後継争い及び群雄蜂起の際に皇帝の責務を放棄し逃げ出した件を除けば、全体的に3度の減税が行なわるなどその治世は善政であったとも考えられている。叛乱に関しては暴政に起因するものでなく、性急な高句麗遠征とその失敗による求心力の低下と事態収拾の失敗が反乱の原因であると考えられている。
(以上、ウィキペディアより引用)
暴君っていたんですね!!こわい!